弘前城築城…其ノ壱
弘前城…季節によりその表情を変える。とても魅力的である。
弘前初代藩主:津軽為信により慶長8年(1604年)高岡(現在の弘前)に計画され町割、
地割が始まり、為信没後3年:慶長15年(1610年)二台目藩主:信牧により着手。
翌年の慶長16年(1611年)わずか1年3ヶ月で完成する。
雪の多いこの青森でわずか1年3ヶ月での築城には疑問があるとされる。
ミステリーですね!!今後調べてみたいと思います。
この弘前城は廃藩置県に至るまで260年もの間、津軽氏代々の殿様の居城でした。
弘前城築城…其ノ壱「構造」
【構造】本丸は海抜五十メートル、高岡城(鷹岡)と呼ばれていた。
岩木山を前に、岩木川の流域や平野を見下ろす台地の上にあり、
津軽平野一帯を支配するのに適当な位置にある。
三重の堀(本丸、二の丸、三の丸)をめぐらし、六つの郭(くるわ)、天守閣、
三つの隅櫓(やぐら)、五つの城門が今も残されており、いずれも重要文化財です。
面積は約四九十平方メートル、城のつくりは”平山城”とよばれる。
本来は、六つの郭(本丸~四の丸、北、西の郭)、櫓は八つ、城門は十二からなる
大掛かりな城であった。
現在残されている隅櫓は、植物園から見える「辰巳櫓」、南内門からも見える「申未櫓」、
二の丸方面に見える「丑寅櫓」の三つ。
城門は南内門、追手門、東内門、四の丸北門、東門の五つ。
城門は周辺を土塁で築き、門の前面に特別の門を設けていないことや、
一層目の屋根が高く全体を簡素で素木造りであることから、全国の城門の中でも
古形式の櫓門でもある。
現在の天守閣は九代目:信寧(のぶやす)により消失後の文化7年(18010年)、
本丸東南隅櫓を改築し三層の天守が築かれ今に至る。
天守閣は当初、本丸の西南隅に五層であったが、城完成後16年目の寛永4年(1627年)
9月10日激しい雨と共に雷鳴がとどろき、天守の屋根の鯱に落雷。
五層目が燃え、四層目に移り、釣っていた鐘に引火しこれが三層目の弾薬庫に落下
その瞬間爆発がおき雨の夜空に火柱が立ち上がり焼け落ちたのだ。
※この模様は信牧が「御日記」に書き記している。
天守閣が残る城、築城形態の全貌を遺す城跡として今日まで保存されているのは
全国でも類例が少ない。
弘前城築城…其ノ弐は「為信から信牧へ」お楽しみに
「弘前城物語」他より参照
gono